Spirit Bear

この美しき大地が時を刻みはじめた頃、この世界は氷と雪で覆われていました。
見渡す限り白銀の世界が何処までも続いていたのです。
そのとき、天からワタリガラスが大地に舞い降りて、白銀の世界を緑の世界に変えてしまいました。
しかし、ワタリガラスはどうしても、かつてこの世界が真っ白であった頃のことを思い出せるようにしたかった。
そこで、ワタリガラスはクマの世界に入りこみ、黒いクマから時折、白いクマが生まれるようにしたのです。
そして、この白いクマが平和に生きつづけることができるように、いつまでも森を見守り続けているのです。
Kitasoo Peopleの伝説
太古の森に潜む幻の白いクマ
Misty Morning
三日間、降り続いた雨がようやく止んでくれた。
雲間から差し込む柔らかな日差しとともに、伝説の白いクマはサケを求めて
森から姿を現した。
カナダ太平洋沿岸部の原生森林に、ごくわずかながら白いクマが数千年に渡って存在している。この土地に暮らしてきた先住民の人々は、その白いクマに霊的な力をみいだし、伝説として語り継いできた。この白いクマには、非常に強い精霊が宿っており、人間社会を司り、人々を困難な状況から平和へと導いてくれるという。そして人々は絶大なる力と勇気の象徴としてこの白いクマを畏れ、神話として語り伝えてきた。
太古の昔、この土地は大氷河で覆われていたという。その後、大氷河はゆっくりと後退し、何もない岩ばかりの大地が露出し、長い年月を経て、いつしか深い森が出現した。現在、伝説の白いクマが潜むこの土地は、圧倒的な緑の世界である。僕はこの太古の森に惹かれ、カヤックを使って海から森へと旅を始めていた。そして、この土地に深く携わっていた人から、伝説の白いクマの存在を耳にしていた。僕はこの土地を訪れるたび、森の奥深くに潜むという伝説の白いクマの気配を探していた。あるとき、とある島で伝説の白いクマを見たことがあるという人に出会った。その島には数頭であるが、確実に白いクマが存在するらしかった。僕はこの情報を頼りに、この島へとボートに食料とキャンプ道具を積みこみ、運んでもらった。「一週間後に迎えにくる、グッド・ラック!」と運んでくれた先住民の人と握手を交わし、視界からゆっくりと消えて行くボートをぼんやりと見送っていた。あたりは静寂に包まれ、再び太古の様相を取り戻していった。今すべきことは早くベースキャンプを設営することだ・・・。
夜明けとともにテントの中が次第に明るくなってきた。昨夜からひっきりなしに、ぱらぱらとテントに降り続いていた雨粒の音もどこかに消えたようだ。森の何処からか「ガーガ。ガーガ。」とよく通る鋭い声の主はワタリガラスであろうか。何やら騒々しく叫んでいるが、何か近くにいるのだろうか。今日はいったいどんな一日にめぐりあうのだろうと、湿った寝袋にくるまり、まどろんでいると、朝日が鬱蒼とした森の中に差し込んできた。木立がシルエットとなって、テントのキャンバスに映っている。僕は心地好い我が家から決別し、目の前の倒木に向って用を足していると、20メートルほど離れた苔の絨毯の上に大きな白い物体が目に飛び込んできた。なんと、伝説の白いクマが今、僕のすぐ目の前で居眠りをしているのだ。そして僕の存在に気付くと、しばらく僕を不思議そうに見つめていた。やがて、この頼りない二本足の動物に対して興味がないのか(興味をしめされても困るのだが)再び居眠りを始めてしまった。
サケを川から獲ってきて森の中へ運んできて食べていたらしく、あたりには数匹のサケの死骸が散乱しハエがたかっていた。僕が何も知らずにテントの中で眠っている間に、彼は川でサケを獲り、ここまで運んで食べていたのだ。そして腹を満たしたのか、今こうやって僕の存在など気に留めることもなく眠っている。人間の世界から遠く離れた太古の森で、僕は伝説の白いクマとたった20メートルほど隔てた距離をおいてこの時間を共有している。何故だか不思議と恐怖感はなく、僕の心は温かさで満たされていった。
この日を境に、このクマと僕は不思議な関係ができあがっていった。僕がこのクマと出会った森には、小さな川が流れている。海へと注ぐその川は、潮が引くと河口が小さな滝となり、その滝の下に沢山のサケが溜まるのだ。彼はそれを見計らって毎日、森から下りてくる。森から顔を出し、潮が引いて露出した狭い岩場を通って漁場へと向う途中、僕と出会うと、一瞬、気まずそうな複雑な表情をこちらへ向けるが、僕がそっと道を譲るとゆっくりとした足取りでサケを獲りに行ってしまう。そして、いとも簡単にサケを捕まえると、口に咥えて森の中へと戻っていく。その光景を遠くからぼんやりと飽きることなく眺めている僕。あたりまえの光景をあたりまえのように眺めている自分自身に不思議な感覚を憶えていた。
この場所では毎年、夏の終わりになると無数のサケが生まれ故郷の川へと帰ってくる。そしてそのサケを求めてクマやハクトウワシ、カワウソ、ワタリガラス、海ではアザラシやシャチといった動物たちもまた帰ってくる。その無数のサケを育む豊かな森。森の木々はクマが運んだサケの死骸から森には存在しない栄養分をもらい大きく成長する。そしてあらゆるすべての創造者としての雨。ここではあらゆるものが繋がりあっている。そしてその大きな繋がりの中に身をゆだねるとき、大いなる温かさをはっきり意識できた。心もとないほど脆弱に思える僕の肉体はやがて滅び行くだろうが、この森は永遠に繋がり紡ぎあってゆくだろう。僕は生まれて初めて本当の自然というものに触れたような気がした。そこには少しも派手さや興奮もなく、時間というものだけがゆっくりと流れていた。
この森で僕の中にひとつの伝説が誕生した。
この森を去る日がやってきた。山のような荷物を整理し、カメラ機材もザックにしまいこんでいた。良い写真が撮れたかどうかはもう大した問題ではなかった。恐らく二度と帰ってこない時間を心ゆくまで堪能したかった。いつのまにかクマを観察する場所になっていた大きな石にまたがって海をぼんやり眺めていた。遠く離れた対岸の島のあたりでクジラが潮を吹き上げている。どうやら南へ向うザトウクジラのようだ。たった今、このクジラの群れを見つめている人間は僕だけなのだろうか。ボートが僕のところへとやってきた。山のような荷物をすばやくボートに積みこみ、ベースキャンプを離れると、森の中から白いクマが現れた。そしていつものようにサケを捕まえると、再び森の中へと戻っていった。僕はその光景を見えなくなるまで眺めていた。

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月刊OUTDOOR/山と渓谷社 2000年2月号より 一部改正